#617 白いブランコ
今年最後の連休が始まりました。勤労感謝の日を挟んだ3連休です。急激に秋が深まり紅葉も進み、行楽地は多くの人で賑わうことでしょう。あと1週間もすれば師走となり、世の中は慌ただしい年末へと進みます。そして今年も残りひと月になります。
さて、「白いブランコ」というフォークソングを聞いたことがありますか。「君は覚えているかしら あの白いブランコ…」で始まる名曲です。私は小学校の修学旅行のバスの中でこの歌を歌ったことを今でも覚えています。懐かしい歌です。今ではもうブランコに乗ることもなくなりましたが、幼い頃には公園でよくブランコに乗って遊んだものです。
この楽曲を歌ったのがビリーバンバンです。二人兄弟のデュオで、他に「さよならをするために」や「君に恋してる」などのヒット曲を残しています。今日は弟の菅原進さんのインタビューを紹介します。懐かしいと思うブログ読者の方もいらっしゃることでしょう。
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『[ビリー・バンバン 菅原進さん](上)
「兄が亡くなり、時がたつほど悲しくなってくる」…アマチュア時代に作った名曲「白いブランコ」』
「白いブランコ」など今も歌い継がれる名曲を歌う兄弟デュオ「ビリー・バンバン」。兄の菅原孝さんが9月11日に亡くなりました。弟の菅原進さんに、お兄さんとの思い出やこれからのビリー・バンバンの方向性などをうかがいました。(聞き手・斎藤雄介、撮影・秋元和夫)
<「ビリー・バンバンという名前は残したい」>
――お兄様が亡くなられてまだ日もたたないところ、申し訳ありませんが、ご心境をお聞かせください。
亡くなったときはショックだった。悲しかった。時間がたつにつれてもっと何か悲しくなってくるね。1969年のデビューから56年間になりますか……長い間一緒にやってたから、一つ一つ思い出がよみがえってきてね。ああいうことがあったな、こういうことがあったなと。時間がたつにつれて、悲しみが増しますね。
去年の秋ごろから入院していまして、 誤嚥性ごえんせい 肺炎を起こして亡くなりました。兄貴はいろいろなことを支えていたからね。精神的な負担っていうのが、すごくあったんですよね。それが重なったところがあったと思います。
――これからビリー・バンバンはどうなるのでしょうか。
ビリー・バンバンという名前は残したい。残します。
――新しいバンドを組むというお考えはない?
基本的には僕1人です。だれかと組むということは、今は考えていないです。ビリー・バンバンの菅原進として活動していきます。
――フォークソングを歌うようになったのは、どのようなきっかけがあったのですか。
音楽の世界に入ったきっかけも、兄貴ですね。兄貴がピアノを習うって聞いたので、「僕も行く」となったのが最初。小学生のころですね。
そのころから音楽が好きでしたね。中学生ぐらいからアメリカの曲が好きになって。昔、ドーナツ盤(シングルレコード)ってあったでしょう。1枚330円とか、450円ぐらいだったのかな。おこづかいをためて、よく買いましたよ。ポール・アンカとかニール・セダカとかね。ビートルズのちょっと前の音楽ですね。
兄貴は野球部で勉強もできて、オールラウンドにできた。僕のほうは音楽一筋。高校で4人組のバンドを組みました。最初、兄貴は参加していなかった。友達のせんだみつおさんがパーカッションで、ぼくがフォークギター。
――エレキギターではないんですね。
エレキがはやったのは、その後ですね。当時は「カレッジ・フォーク」がブームになったころ。僕も青山学院大学に進学して、フォークブームにのって学園祭で歌いました。そのころから、ビリー・バンバンっていうバンド名を名乗っていました。
アメリカのアニメ番組があったんですよ。ビリー・ザ・キッドが2丁拳銃でピストルをバンバン撃つっていう西部劇。バンドのメンバーのお姉さんが「ビリー・バンバンって名前の響きがいいね」って言って、それでビリー・バンバン。
<本当にブランコに乗ってできた「白いブランコ」>
――名曲「白いブランコ」を作曲されました。
父の友人が浜口庫之助先生(「バラが咲いた」などで知られる名作曲家。「ハマクラ」の愛称で知られる)と知り合いだった関係で、僕ら兄弟は浜口先生の門下生になって音楽を学びました。
浜口先生のお屋敷の庭には、本当にブランコがあってね。2個あって、1個は壊れていた。作詞部門の門下生だった小平なほみさんと一緒にブランコに乗りながら、曲を作ったんですよ。とにかくロマンチックでね、秋で枯れ葉が落ちてくる。そこでギターをじゃらんと鳴らしたら「君はおぼえているかしら」という、あのメロディーが出てきたんだ。
そうやってできた「白いブランコ」を学園祭なんかで歌っていたら、人気が出てきた。 そのころ、ニッポン放送で、アマチュアのフォークグループが出演する「バイタリス・フォーク・ビレッジ」という番組がありましてね。そこで「今月の歌」に選ばれたんです。ディレクターの方が聴いてくれて、この曲いいなっていうので決まったんです。
ラジオ放送のために「白いブランコ」を録音しました。その放送を聞いた人たちが「もう一度聞きたい」と手紙をくれて、世に広まっていったんです。「バイタリス・フォーク・ビレッジ」の時から、兄がビリー・バンバンに参加します。
――「白いブランコ」はハマクラさんの指導で作られた曲ではないんですね。
そうです。自然に生まれてきた曲なんですよ。その前にね、浜口先生がピアノを弾いて「バラが咲いた」が出来た時、「兄弟でちょっと歌ってくれ」っていうんで歌ったんですよ。いい曲だなと思って、これが僕たちのデビュー曲だと思っていたら、マイク真木さんに歌われちゃった(笑)。
大学を卒業して、兄弟2人でデビューすることになりました。浜口先生が「星空のハプニング」という曲を書いてくれて、キングレコードで会議をしました。
その時は、もう「白いブランコ」がラジオで流れて人気になっていたんですよ。先生がトイレに立った時、レコード会社のスタッフが「進君。『白いブランコ』でデビューしよう」と言い出して。
先生が戻ってきたので、「『白いブランコ』に決まりました」って言ったら、先生は怒りもしないで「良かった。良かった」と。
――兄弟デュオでデビューするというのは、どちらの意向でしたか。
レコード会社ですね。浜口先生も「兄弟がいいんじゃないか」と。アメリカに「エヴァリー・ブラザース」っていう兄弟デュオがいたんです。それで「兄弟デュオ、いいんじゃないか」ということになった。
あのころ、日本には兄弟デュオっていなかったんですよ。僕らのあとに、狩人とかブレッド&バターとか出てきた。
兄弟は声質が似ているので、兄とコーラスをするとぴったりくるんです。倍音が合って、豊かな、広がりのある音になる。
――せんだみつおさんは、外されてしまったわけですね。
せんだはお笑いをやりたかったの。それで僕たちについていろんなところを回ったとき、ニッポン放送の方がせんだのことを面白いといって、和田アキ子さんのラジオ番組に出るようになって人気者になった。
<とがっていた若いころ。レコーディングをボイコット>
――69年に「白いブランコ」でデビュー。72年には「さよならをするために」がヒットしました。
「さよならをするために」のレコーディングのときに、僕ね、「歌わない」って言って帰っちゃったんですよ。 生意気だったんです。「自分の曲じゃないから歌わない」って言って、レコーディングの途中でスタジオから出てっちゃった。
「さよならをするために」は作詞が石坂浩二さん、作曲は坂田晃一さん。すごくいい曲なんですよ。ただ若いから、自分のエネルギーがあふれていて、自分でやりたいっていう我が出てきたんです。
自分で作った曲を歌いたい。あのころのフォークミュージシャンには、そういう思いが強かったんですよ。フォークとかやってる人はみんなそうなんだけど、自分の世界を作りたいわけです。
――進さんが「歌わない」と言い出して、お兄様はどうされたんですか。
「進、歌えよ」と言いましたね。兄は、僕のような、とがったところはないんです。でも、僕は断って帰っちゃった。何日かして、レコード会社から「お願いします」って電話が来て、その時は「わかりました。生意気なこと言ってすみません」って言いました。「俺もばかなやつだな」って自分で思ってね。
結局歌ったら、ヒットしました。ちょっと、ふてくされて歌ったんですよ。それがよかったみたい。ふてくされたっていうか、声をストレートに出して歌ったのかな。
<兄弟仲が悪くて解散>
――ヒット曲も多かったのに76年に一度解散されてしまうんですね。なぜなんですか。
兄弟の仲が悪かった。簡単に言うと。一緒にやっているとね、やっぱり、ぶつかり合いがあったわけですよ。音楽性も含めて、すべてがぶつかり合う。兄弟っていうのは、ぶつかってお互いに勉強し合って、成長するんですから。
――ビリー・バンバンの著作(「さよなら涙 リハビリ・バンバン」)には、進さんにはアメリカに進出する計画があったと書かれていました。
いや、進出じゃない(笑)。英語を覚えたかったんですよ。アメリカの音楽も好きだから、アメリカに行って勉強したいなと思ったわけ。そういう夢を見るよね。若い時は。でも、結局は行かなかったんだから、進出なんてものじゃないです。
――解散はどちらから言い出したんですか。
どちらからというか、自然のなりゆきだよね。もう、ビリー・バンバンとしてはやり尽くした。あのころはそう思ったんだよね。
すがわら・すすむ
1947年生まれ、東京都出身。ビリー・バンバンのデビュー曲「白いブランコ」などを作曲。CM曲も手がけ、いいちこのCMソングを38年間担当している。現在、ユーチューブのチャンネル
も配信している。
※(編集部より)このインタビューは10月末に行なわれました。11月4日に菅原さんは脳梗塞と転倒による左脚骨折のため入院されました。ご快癒をお祈りします。
https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20251105-OYTET50004/
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上記のインタビュー記事には後編があります。ここに掲載しますとかなりの長文になりますので、興味のある方は下記のアドレスにアクセスしてください。
https://www.yomiuri.co.jp/yomidr/article/20251105-OYTET50005/
高校生の時にビリー・バンバンが大牟田市民会館でコンサートを行ったときに聞きに行った懐かしい思い出があります。あの頃はフォークソングとかフォークシンガーあるいはフォーク歌手と呼ばれていました。大牟田市出身の歌手に本田路津子がいます。「秋でもないのに」、「風がはこぶもの」で有名です。現在はゴスペルシンガーとして教会等で歌っています。彼女の透き通った美しい声は雑多なJ-Popの歌声の中で、現在では貴重な声となっています。Youtubeで一度彼女の歌声をお聞きください。
由紀さおりも現在の歌を批判していましたが、日本の歌はリズム中心ではなく、メロディとハーモニーが中心で人々の心に訴える叙情的な歌が多くありました。現在の歌謡曲(特にJ-Pop)は何を言っているのか解釈できない特定の世代に訴えるような曲が流行っています。今年のNHK紅白歌合戦も多くの人が知らないような歌手が登場します。昔の紅白歌合戦は世代を超えて国民に知られている歌手が中心となり歌っていましたが、隔世の感があります。
フォークソングやフォークシンガーという言葉は1960年代から使われていますが、今では死語になりつつある表現です。しかしJpopと異なり、叙情深い歌がたくさんあり、あの時代を表現するものとして相応しい手段だと思います。「白いブランコ」を聞くたびに懐かしい小学校時代がよみがえってきます・