#216 青春

 本日は「成人の日」の祝日で、昨日と今日は全国各地で成人式が行われています。成人式を迎える20歳の若者だけでなく、この日を楽しみにしている親御さんも多いことでしょう。昨年は貸衣装の振袖が届かないという、とんでもない出来事が発生しました。それを受けて今年は「ママ振」という言葉が登場しました。母親もしくは祖母の振袖を仕立て直して、成人式に参加する女性が増えているそうです。いずれにしても、人生で1回しか参加できない式ですので、新成人の方々は育ててくれたご両親に感謝するとともに、一人の大人として責任あるふさわしい言動をしてもらいたいと思います。
 そのような新成人に対して1編の詩を紹介したいと思います。1980年代に日本国内で採り上げられ、広く知られた詩です。詩というよりも教訓的な表現で書かれています。原文は英語です。

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  【青春】サムエル・ウルマン(宇野 収、作山宗久訳 「青春という名の詩」より))

青春とは人生のある期間ではなく、心の持ちかたを言う。薔薇の面差し、紅の唇、しなやかな肢体 ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、炎える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう。

青春とは怯懦(きょうだ)を退ける勇気、安易を振り捨てる冒険心を意味する。ときには、二〇歳の青年よりも六〇歳の人に青春がある。年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。

歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。苦悩・恐怖・失望により気力は地に這い、精神は芥になる。

六〇歳であろうと一六歳であろうと人の胸には、驚異に魅かれる心、おさな児のような未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。君にも吾にも見えざる駅逓が心にある。人から神から美・希望・喜悦・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。

霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲歎の氷にとざされるとき、二〇歳であろうと人は老いる。頭(こうべ)を高く上げ希望の波をとらえる限り、八〇歳であろうと人は青春にして已む。

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 私がこの詩に出会ったのは若さがみなぎるまだ20代の頃でした。「青春は若者の特権である」、と考える人が多いのですが、還暦を過ぎた今この詩を読み直してみますと、確かに身体的な若さのみを青春というのではなく、何事にも挑戦する心(精神)の若さを「青春」という言葉で表すことができると思います。もちろん年を取りますと体力や気力が衰え、若者ほど身体を十分に活かすことができなくなりますが、心の若さは保つことができます。言い換えれば、この詩にあるように、若くても志がなければ、生きる意欲がなければ、その人はすでに「心の萎えた老人」だと言えるでしょう。
 日本では70過ぎの高齢者が大学や大学院に合格するだけでニュースになりますが、欧米では中高年の人々が学び直すことがしばしば見られます。私がオーストラリアに留学している時にも70過ぎのおばあちゃんが3人大学院に学びに来ていました。そして積極的に発言し、講師を困らせていたことを思い出します。確かに体力的には衰えますが、意欲・気力は本人が維持できる要素の一つです。もし生きる気力や学ぶ意欲が無くなれば、高齢者は急速に老化し衰えていくことでしょう。常に新しいことに興味を持ち、意欲的に生活することが若さを保つ秘訣であることは古今東西の偉人の生き方を見て分かります。「成人の日」の今日、ふとこの様なことを考えてみました。

2019年01月14日