#200 この秋に

 今日は体育の日で、3連休の最終日になります。連休初日は台風25号の影響で九州地方は日中暴風や強風が吹き荒れた天気でしたが、昨日は秋らしい爽やかな一日でした。所用で福岡に行きましたが、電車の車窓から見える田園風景は稲が黄金色に輝いており、稲刈りが進んでいる田圃もありました。空気もかなり乾燥しており、背振山地や久留米の高良山は細かな山肌まできれいに見えるほど空気が透き通っており、秋らしい一日でした。また今日は昨日と同じように晴天の一日ですが、やや湿度が高くて蒸し暑く、室温も29度まで上がり、一転晩夏に戻ったような空気感があります。
 さて、このブログも今回で200回を迎えました。開塾と同時に始めたブログですが、週1回のペースでのんびりと書き続けていますので、不特定少数(笑)?向けに4年近く続けたことになります。この間読んでいただいた方々も累計で6000人を超えました。心より感謝申し上げます。学習塾ニコラが続く限り、このつたないブログ「ひつじの独り言」も続きます。
 ところで、秋と言えば「読書の秋」「食欲の秋」など様々な秋がありますが、皆さんの秋はどのような秋でしょうか。人生もよく四季に例えられます。人生のそれぞれの時期を「青春」「朱夏」「白秋」「玄冬」と表現しますが、秋は「白秋」となります。柳川育ちの北原白秋の「白秋」です。ここで余談ですが、北原白秋の生い立ちをウィキペディアより引用します。
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【北原白秋】
1885年(明治18年)1月25日、熊本県玉名郡関外目村(現・南関町)に生まれ、まもなく福岡県山門郡沖端村(現・柳川市)にある家に帰る。父・長太郎、母・シケ。北原家は江戸時代以来栄えた商家(油屋また古問屋と号し、海産物問屋であった)で、当時は主に酒造を業としていた。1887年(明治20年)、弟・鉄雄が生まれる。またこの年、白秋に大きな影響を与えた乳母・シカがチフスで逝去する。
1891年(明治24年)、矢留尋常小学校入学。1897年(明治30年)、柳河高等小学校より県立伝習館中学(現・福岡県立伝習館高等学校)に進むも、1899年(明治32年)には成績下落のため落第。この頃より詩歌に熱中し、雑誌『文庫』『明星』などを濫読する。ことに明星派に傾倒したとされている。1901年(明治34年)、大火によって北原家の酒蔵が全焼し、以降家産が傾き始める。白秋自身は依然文学に熱中し、同人雑誌に詩文を掲載。この年、初めて「白秋」の号を用いる。1904年(明治37年)、長詩『林下の黙想』が河井醉茗の称揚するところとなり、『文庫』四月号に掲載。感激した白秋は父に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学。上京後、同郷の好によって若山牧水と親しく交わるようになる。この頃、号を「射水(しゃすい)」と称し、同じく友人の中林蘇水・牧水と共に「早稲田の三水」と呼ばれた。1905年(明治38年)には『全都覚醒賦』が「早稲田学報」懸賞一等に入選し、いち早く新進詩人として注目されるようになる。この頃、少年時代南関の家で本を読み、白秋に本の大切さを教えた叔父が亡くなる。
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北原白秋は多くの童謡の詩も残しています。例えば「雨降り」「ゆりかごのうた」「砂山」「からたちの花」「この道」「ペチカ」「あわて床屋」「待ちぼうけ」「城ヶ島の雨」など今でも多くの人が口ずさむ童謡がたくさんあります。柳川は観光地として多くの外国人が来ていますが、私の母の故郷ですので、私が幼い頃には毎年柳川を訪れていました。ここ数十年は母の故郷を訪問することもありませんが、いつか暇を見つけて遠い昔に母と歩いた田舎道をこの秋に歩いてみようと思っています。

2018年10月08日