#578 「奇跡のピアノ」音色を復活
「ああ、これは直らないな。」初めてそのピアノを目にしたとき、そう思った。東日本大震災が東北を襲って約2カ月後、福島県いわき市の旧豊間中学校の体育館の中央にはグランドピアノが置かれていた。津波で被災し、海水にどっぷりつかっていた。約13年前、のちの「奇跡のピアノ」との出会いだ。
帰宅したものの、カタカタと悲しげな音を立てる姿が頭から離れない。もう一度見に行った際、側面に刻まれた寄贈者の名前に心を打たれた。子供たちに向けられた善意を無駄にしたくない。「直るか直らないかわからないが挑戦したい。」関係者に許可を得て引き取り、修理に出した。
それまでにもオーバーホールの経験があったが、海水につかったピアノを修理したことなどない。すべて手作りで進めるほかなかった。解体してみると、内側には砂が詰まっていた。それらを取り除き、海水の塩分を落とすため、水洗いしたのち、洗剤で洗浄した。
なるべく元のパーツを生かしながら、足りないものはメーカーから取り寄せた。ネジというネジはさびており、いつ折れるか分からない。慎重に作業を進め、2カ月半をかけ修復を終えた。
復活したピアノは2011年の大みそかにNHK紅白歌合戦に貸し出したことで有名になり、全国から演奏会で使いたいとの申し込みがあった。ピアノを中心に人々の交流が生まれていった。
東日本大震災以降も日本は幾度も災害に襲われた。いつしか私の元には、被災したピアノの修理依頼が多く寄せられるようになった。修理したのは150台近くになる。これまでに依頼を断ったことは一度もない。
東日本大震災では、私自身も被災した。福島第1原発事故が起き、放射線量が高まり、避難を余儀なくされた。道ばたに多くのピアノが打ち捨てられているのを横目で見ているしかなかった。「奇跡のピアノ」は有名になったものの、その陰には救えなかった何台ものピアノがある。だからこそ、直してほしいという人がいれば、その思いに応えたい。罪滅ぼしのような思いがある。
20年に熊本を襲った豪雨の際にも依頼があった。ボランティアで兵庫県尼崎市から現地入りした青年からだった。熱意におされ、被災地に向かい確認すると内部に泥が堆積していた。九州の土は粘土のようで、固まってこびりついていた。
いわきまで運び、ノミを使って泥を削り取った。修理を終え、運び込んだとき、うれしそうに迎えてくれた子供たちや、その後の演奏で涙を流していた人たちの姿は忘れられない。音楽は人を笑顔にする力がある。必ずしも被災したピアノである必要はないが、被災者はよみがえったピアノに自分自身を重ねる部分があるのだろう。
東日本大震災からまもなく13年がたつ。しかし福島県はまだ復興途上だ。期間困難区域が残り、数多くのピアノが取り残されている。2023年には、避難指示が解除された浪江町の津島小学校、双葉町の双葉中学校から運び出し、修理を行った。双葉町では同年11月、ピアニストの西村由紀江さんがよみがえったピアノを演奏し、約12年ぶりに音色が響いた。
奇跡のピアノは現在、「いわき震災伝承みらい館」に展示されており、依頼に応じて貸し出しもしている。木の部分にときどき塩が浮き、ふつうは30年は持つ弦も3年ほどで切れてしまう。メンテナンスは欠かせない。東日本大震災を経験した”証人”の音色を未来につないでいきたい。
(遠藤 洋(えんどう ひろし)調律師/日本経済新聞 文化面 6年3月6日)より転載
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上記のエッセイは毎年1月末に株式会社クマヒラ・ホールディングスから送っていただいている「抜粋のつづり その八十四」からの抜粋です。
まもなく東日本大震災から14年が経ちますが、震災の影響は今でも続いています。犠牲者は人や動物(ペットなど)だけでなく、家屋や貴重な品物、大切な思いでさえも地震や津波で壊され無くなりました。被災者の心はまだ癒されていません。犠牲になった人たちに心から追悼を捧げたいと思います。
また阪神淡路大震災や東日本大震災だけでなく、熊本地震や能登半島地震など日本各地で様々な自然災害が生じています。毎年のように梅雨時期に豪雨や洪水が発生し、多くの被害者が出ています。この国に住む限り自然災害から逃れる術はなく、自然との調和を考えながら生きていくしかありません。
災害を受けない地域はこの国には存在しません。これまで災害に合わなかった人々は本当に幸いです。災害はいつ来るか分かりません。しかし事前に予想することで、ある程度の被害を避けることは可能です。南海トラフ大地震が声高に叫ばれている今、もう一度避難経路や非常食の確認をする時期だと思います。それが災害で亡くなった人々への鎮魂の思いにもなります。「明日は我が身」です。日頃より防災の意識を持つことが大切です。