#346 先生にいただいた三冊のノート

 今日は春めいた天気が朝から続いています。数日前は真冬を思わせる寒波が二日ほど続きましたが、本日は最高気温が20度に達すると予想されています。春はもうすぐそこまでやって来ています。
 さて、毎年1月末に1冊の冊子が届きます。株式会社クラヒラの「抜翆のつづり」です。この冊子は全国の新聞や雑誌、機関誌などから珠玉の文章を集め、1冊の冊子に編集して無料で学校や企業などに配布しています。私は毎年この冊子が届くのを楽しみにしています。仕事の合間に少しずつ読んでいますが、名文ばかりです。今日はその中の1文を紹介します。

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『先生にいただいた三冊のノート』(臼杵 巌)
 中学二年生の七月。定期試験も終わり、間もなく夏休みに入る、最も気分のゆったりしているときだった。
 そうした時期の体育の授業の終わりに、先生が突然、クラス全員に「ノート」の提出を求めた。思いもせぬその言葉に、教室中に驚愕の声が沸き上がった。
 雨天時には教室で先生の講義があるが、みんな実技ばかりに興味を示して、満足にノートを取る者はあまりいない。先生は熟知していた。「三日中には全員、職員室まで持ってこい!」という先生の声で、体育の授業は終わった。
 動揺した。仲間のそれとはまったく別の意味で。私の使用している「ノート」は、あまりにも粗末な代物だったからだ。広告紙の裏を利用し、それを綴じ込み、ノートの代用品としていた。
 私にとって、貧しさと恥ずかしさの証で、一番触れてもらいたくないものだった。クラスで恥をさらすのは耐えられない。相談できる者などいなかった。
 その日の夕刊の新聞配達を終え、配達先の集金作業を行い、翌日の折り込み広告の整理と段取りを終えると、夜の八時。夕食をとる気力もなく、店の二階の下宿部屋に引きこもった。全身から力が抜け落ちたように、三畳の部屋に倒れ込んだ。どうしたらいいのか、どう考えても、答えは出なかった。
    贅沢は言えない
 新聞専売所二階の下宿生活は、もう一年近く続いていた。私一人だけが中学生で、あとは大学生以上がほとんどだった。
 店の人が心配そうに顔を見せてくれたが、先生の昼間の言葉が強烈に胸に残っていた。この日の疲労は特別だった。
 翌朝の三時、朝刊の準備で店が騒がしくなっても、先生の言葉が耳元にあり、まったく寝付くことができなかった。
 長男の私は、家への仕送りが必要だった。父は北海道の炭鉱で三度の倒産にあい、それからは長年定職に就けず、各地を放浪の末、遠い友人を頼り一家で横浜へ移住した。が、仕事運はなく、私の給料が我が家の貴重な収入となっていた。
 給料を送金したときの、母の安堵した顔を思い浮かべることが、私の一番を幸せだった。新聞専売所へ下宿できたのも、事情を知った店主の計らいと温情からだった。
 そうした生活の中で、唯一恵まれていたのが、新聞専売所の「紙」だった。毎日の折り込み広告が無数にあり、広告配達の依頼が絶え間なくあった。倉庫には配達残りの広告がいつも無造作に積まれていた。
 店主に断り、この広告紙に裏面の白いものがあれば、いつも五十枚ほど分けてもらい、綴じてノートの代わりとした。
 すべての学科の「ノート」が広告紙の裏だった。市販のノートは一冊として購入しなかった。当然、学科ごとに「ノート」の大きさも異なり、表紙などはなかった。紙質も鉛筆の滑りも悪く、でも贅沢は言えなかった。
    負けるな、諦めるな、絶対に!
 「ノート」の提出にいい案など思いつかず、時間ばかりが非情に過ぎた。最終日、覚悟を決めた。放課後、職員室に友人たちがいないことを見定め、入室した。
 先生は先刻から待っていて、最終提出者が私であることを告げた。頭を下げ周囲を気にし、表紙のない広告紙の「ノート」を提出した。唖然とした先生の表情があった。
 もう正直に、一切の事情を打ち明けるしかなかった。家庭生活、父の失業、相次ぐ転向、母への仕送り、新聞店での下宿……。
 話をしながら、悔しさと羞恥心で肩がふるえ、涙が流れだした。体中が熱くなり嗚咽がとまらなかった。先生は一言も発さずに、うなずいて聞いてくれた。
 一週間後、「ノート」の返却で職員室を訪れた。先生は私を見据え、「絶対に負けるな!諦めるな!いいか!」と諭しつつ、両手を私の肩に置き、何度も押さえつけた。
 手のぬくもりを感じた。自分を理解してくれる人がここにいる。大きな安堵感と歓喜で言葉も出ず、胸がいっぱいになった。
 返却された「ノート」には「整然としています」と評価があり、最後に先生の大きな字で「負けるな、諦めるな、絶対に!」と力強く二度書かれていた。
 広告紙の「ノート」は新品のバインダーに綴じられて、別に真新しいノートが三冊、先生から手渡された。
 先生の言葉が書かれた「ノート」は、今も手元にある。これまでの自分の長い旅路で、一体何度この言葉を凝視し、かみしめ、挫折と闘い、蹴飛ばし、無事帰還してきたことか。
 先生にいただいた三冊のノートは贅沢過ぎて使えず、今も私と共に人生を歩いている。
(うすき たかし=会社経営 PHP「生きる」2年6月号より)
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 おそらく著者は70過ぎの方でしょうか。私が小・中学生の頃、新聞配達のバイトをしている友人がいましたが、家庭の生活費を稼ぐために行っていたようです。著者は現在会社経営をされていますので、若いころの苦労が実を結んだのでしょう。頭が下がります。また文中に登場する「先生」の生徒に対する思いも素晴らしく、教育の現場において先生の何気ない一言がいかに生徒に影響を与えるかのよい例です。昭和30年代の頃の日本はまだ貧しく、多くの人がその日暮らしをしている状況がありました。そのような中で著者のような努力の人が高度経済成長の土台となったことが偲ばれます。

2021年02月21日