#125 いのちの使い方(その3)

 今日は日航機が群馬県の御巣鷹に墜落した日で、あれから32年が経ちます。当時私は高校3年生の授業を担当していました。当時流行った言葉が「ダッチ・ロール」でした。つまり日航機が事故原因となった圧力隔壁の破壊でコントロールできずに、機体が揺れていた状態を言います。遺族の方々にとって32年という時間はどのようなものだったのでしょうか。今でも多くの方がやり切れない気持ちでいらっしゃると思います。歌手の坂本九さんも犠牲者の一人でした。改めて犠牲になられた方々に冥福を捧げたいと思います。
 さて本日のテーマは「いのちの使い方(3)」です。前回紹介しました日野原先生の別書(『3.11後を生きる「いのち」の使命』48頁~51頁)から引用します。

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 女性飛行士先駆けであるアン・リンドバーグは、また社会学者でも作家でもあります。この方の随筆『海からの贈り物』の中に、次のような一節があります。
 「私が中年になったからには、人生の後半が始まると思うから、しばらく島に行って、どうこれから生きればよいかということを考えよう」
 そして彼女は1週間ばかり、昼間は海岸の砂浜で過ごし、夜は帰って机の上で、浜から持って帰った貝殻を手にしながら、将来の生き方を考えるのです。
 自分はどんな貝殻に住むべきか。壮年期は外へ向かって、いかに自己を顕示するかが課題だったが、五十歳という中年を迎えた今、内なる自己を見つめて、これからは内に向かう自己と外へ向かう自己を調整する時が来た、と。
 彼女は五十歳を中年の「入り」と考えています。そしてそれが、ちょうど内なる自己を考えるタイミングの年だというのです。
 残された日々、まだ行ったことのないところに行ってみよう、という計画もあるかもしれません。しかし、何よりも大切なのは、生きることについて、これまで以上の「深さ」を求めることです。
 私たちのこれまでの人生の中で、意味のある時間というのは、はたしてどのくらいあったでしょうか。社会の中で、あるいは家庭で、生きるための努力をした時間。遊んだり、楽しむために使った時間はかなりあったでしょうが、自分のことを考える一方、私ではない他者のために考える時間はどれだけあったでしょうか。そのバランスはどうなのでしょうか。
 私たちが死ぬ時、あなたがもらったものの重さと、あなたが捧げたものの重さのどちらが重いか、と聞かれたらどう答えますか。六十歳まではもらったものの方が多いでしょうね。
 若いときには学校に行くとか、社会の仕事が忙しいとか、子供に手がかかるとかで、なかなか思うように時間がとれません。しかし、人生の午後になると、私たちは自分で選択する時間が与えられます。そしてその選択をする時に、「何のために」ということを考えなくてはなりません。
 今までは、家庭のためとか、社会的な地位とか名誉のためだったかもしれません。しかしゴールを見定め、人生に結末をつけることを考えると、意味とか価値という事柄に重きを置くようになります。与えられた時間をどうデザインするか、それはその価値観によって決められるのです。
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 105歳で天寿を全うされた日野原先生らしい御言葉です。人生の午後になって慌てずに、人生の日が沈む頃になってあたふたすることのない様に、将来を見据えて残された時間を考慮しながら今後の生き方を考えたいものです。

2017年08月12日