#294 変なおじさん逝く

 今日は3月31日で、年度末です。明日から新年度になりますが、新コロの影響で明るいニュースがありません。各大学での入学式の中止や小中高の春休みの延長が検討されています。
 さて、昨日志村けんさんが新コロの犠牲になりましたが、国内外に大きな悲しみが広がっています。中国や台湾、韓国でも速報を流したそうです。説明するまでもなく、彼はドリフターズの一員で、様々なコントを国中に提供し、笑いをもたらしました。またドリフターズ解散後も多くの世代に笑いを与えてきたことでも知られています。
 しかし意外と知られていないのが彼の素顔です。彼の性格は舞台で見せる「バカ殿」のようなふざけた性格でなく、物静かな優しい人物であったと言われています。笑いのための役作りのために、徹底し計算された笑いを追求し、舞台やテレビではひたすら「バカ」になりきったそうです。昨晩のNHKの緊急特番「志村けんのファミリー・ヒストリー」を見ましたが、その顔はコメディアンの顔ではなく、素顔に近い真面目でシャイな顔だったことを感じました。稀代のコメディアンとして彼ほど徹底的に独特な笑いを追求した芸人はもう出てこないのではないかと思います。
 昨日からマスコミも彼の訃報を長時間にわたって報道しています。今日「文春オンライン」に次の記事が出ていましたので引用します。
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【追悼】志村けん 取材記者だけが知る“素顔”
         「努力を外に見せない、シャイで繊細な人でした」
 新型コロナウイルスによる重度の肺炎を患い入院中だった志村けんさんが、3月29日に逝去したことが分かった。70歳だった。
 これまで、自身についてあまり多くを語ってこなかった志村さんだが、芸能界40周年となる節目で、「週刊文春」2012年10月11日号のロングインタビューに応じていた。そのインタビューを担当したジャーナリスト・中村竜太郎氏が、取材時に垣間見えた志村さんの“意外な一面”や、誌面に載せられなかったエピソードを語る。

<とても人見知りで、最初はそっけないふうだった>
 志村さんのインタビューは、乃木坂にあるイザワオフィス(志村さん所属の芸能事務所)で行いました。私は1964年生まれで、まさにドリフとともに育ってきた世代なんです。『ドリフ大爆笑』も『志村けんのバカ殿様』もずっと見ていました。ただ、それまでの記者人生の中で志村さんに直接お会いしたことはなかったので、気持ちとしては一人のファンとして、「どんな方なのかな」「やっぱりひょうきんで、軽やかな感じの方なのかな」と思って、取材に向かったんです。
 そして、いざ事務所の応接室でテーブルを囲んでお会いしたら、とても人見知りの方で。非常にシャイで繊細な人なんだな、というのが強く印象に残っています。インタビューでは、限られた時間の中で用意した質問を一つずつ聞いていくんですけど、最初はなんだかそっけないふうでした。
「いつもどうやってギャグを考えているんですか?」と聞いたら、「うーん……。まぁ、どれもたまたまですよ」みたいな。そこで変な間が空いてしまうので、次はより具体的に「では、東村山音頭はどうやってできたんですか?」と聞いたり、少し質問を噛み砕いたり……そうすることで徐々に場の空気がほぐれていった、という感じでした。

<普段の志村さんは「静」の人>
 私たちが思う“志村さん像”には、爆発的なギャグを繰り出したり、舞台上で突然暴れだしたり、やっぱりそうしたイメージがありますよね。でも、それが「動」だとしたら、普段の志村さんは「静」なんです。特にインタビューの序盤は言葉が重たいといいますか、あぁ、実はとても慎重な方なんだな、という印象を受けました。
 私が知る中では、北野武さんの雰囲気にちょっと似ているかもしれません。武さんとは『ビートたけしのTVタックル』で共演したことがありまして、直接お話ししたこともあるんですが、武さんも素顔は人見知りで知られます。でも、ひょっとしたら武さんよりも志村さんの方が、言葉が少ない、寡黙な方かもしれないです。テレビで見ている印象とは全く違いましたね。

<「笑ってるとさ、また頑張ろうって思えるじゃない」>
 特に記憶に残っているのは、志村さんに「お笑いとは何ですか?」とお聞きしたときのやりとりです。その質問に対して志村さんは、「お笑いって、よくわかんないけど元気とパワーをもらえるよね」と仰って。「笑ってるとさ、また頑張ろうって思えるじゃない」と。それは本当に良い言葉だなと思いましたね。
 お話を伺っていると、志村さんは一つ一つのコントをとにかく作り込んでいるんだな、と感じました。こうすると面白いんじゃないか、いや、こっちの方がいいんじゃないかと、何度も試行錯誤しながら作っていく。でも、そうした努力は外に見せない方なんだと思います。
 私もインタビューでは、「あのときはどうだったんですか?」「あの伝説のギャグはどうやって生まれたんですか?」と聞くわけです。でも、やっぱり自分がやっているお笑いを解説するというのは、どこか気恥ずかしいことだと思うんですよね。志村さんが自分の話をされるときに、終始照れ笑いのような、はにかんだ表情をされていたのも、そうした気持ちがあったからじゃないかな、と感じます。

<“厳格な父親”のもとでお笑いを目指した日>
 ただ、それでも「自分は喜劇人なんだ」「コメディアンなんだ」という自負は、すごく伝わってきました。そもそもお笑いの道に進んだきっかけは、子供時代の経験にあるそうなんです。
 志村さんのお父さんはもともと軍人で、戦争が終わってからは小学校の先生をやっていて、教頭にまでなった。そうした職業柄か、とにかく厳格な父親だったそうで。いわゆる、“日本のお父さん”が強い時代の家庭で、ときに堅苦しいような、窮屈なような、そうした家だったんだと仰っていました。
 でも、そんなお父さんも、テレビにエノケン(榎本健一)さんが出てきてお笑いをやると、「ふふっ」と笑いをこらえるようなところがあったみたいです。志村さんは子供時代にそんな姿を見ていて、「こんなに厳しいお父さんが笑うこともあるんだ……。お笑いって、なんかいいな」と思ったそうです。それがお笑いを目指した原点なんだと教えてくれました。

<4年前に肺炎を患ってからは健康面にも気を遣っていた>
 実は最近も、志村さんのことはよくお見かけしていたんです。私の事務所は麻布十番にあるんですが、十番にはよく志村さんがいらっしゃって。地下鉄の麻布十番駅から上がっていくと、地上出口の前にちょっとした広場のようなところがありますよね。そこで待ち合わせをして、「志村けんファミリー」の方と飲みに行っている姿を、よく目にしました。
 2016年に肺炎を患って2週間ほど入院された後は、それまで多いときは1日60本くらい吸っていたタバコをやめたり、お酒も少し控えるようにしていたそうなんです。今年の1月には胃のポリープ切除の手術もしていて、健康面にも気を遣っていたと聞いていたのですが……。
 突然の訃報は本当に残念で、ショックです。言葉も見つからないほど悲しいです。一人のファンとして、あのとき取材させていただいた記者として、心からご冥福をお祈り致します。
(https://bunshun.jp/articles/-/36958)
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 京都産業大学では10数名もの大学生が感染し、クラスターが発生しています。若者が新コロに感染しても病状が軽いという認識は改めなければなりません。現実に10代の人々も亡くなっています。新コロは対岸の火事ではないのです。
 志村けんさんが私たちに教えてくれています。新コロは自分自身で健康管理をして、自分が感染源にならないように、不急の用事以外はできるだけ出歩かないことです。また夜の繁華街の出入りも自粛することです。私たち一人ひとりが彼の死を受け入れ、国民一人ひとりがこの国難に対応しなければならない土壇場にいることを自覚しなければなりません。志村けんさんに衷心より哀悼の念を捧げます。

2020年03月31日