#385 初めての買い物

 今日は6月27日です。今年もすでに半分終ってしまうことになります。1か月後にはいよいよ東京オリンピックが始まります。東京ではコロナの新規感染者が増加に転じ、徐々に増えていく傾向が見られます。またオリンピックに向けて世界から多くの選手や関係者が入国しますが、東京都や国はどのような感染防止策を取るのでしょうか。口先だけの安心・安全では誰も信じません。超新型コロナが日本発とならないように祈るばかりです。
 さて話題を変えて、少しほんのりする話をお伝えしましょう。テレビではよく幼い子どもに一人で買物に行かせる番組があります。親は我が子が無事に買い物ができるかどうかモニターテレビを見ながらハラハラする場面がテレビに映し出されます。買い物を終えて無事に我が家に帰ってきた子どもを母親が涙を流して迎える場面がよく流れます。しかし誰もが必ずしも一人で買い物に行けるとは限りません。お年寄りや体の不自由な方々は近くのコンビニに行くことさえも叶わない人がいます。そんなお話です。
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『初めての買い物』
 伝説の実演販売員、河瀬和幸さんが体験した「お客さん」の話です。その日、河瀬さんは大手有名雑貨店で、高級石鹸を販売していました。平日で店が開店したばかりの時間。お客さんはまだほとんどおらず、店内は閑散としていたそうです。
 と、エレベーターから車つきの大きなベッドが降りてきました。見ると、そのベッドには、おそらく脳性麻痺によって両手両足を動かすことができない女の子が横たわっています。
 どうやら、施設の先生たちに付き添われて、店舗を訪れたようでした。車つきの大きなベッドを移動させるのは、ほかのお客さんの迷惑になるかもしれないという配慮から、開店直後の人がいない時間帯を見計らってやって来たのでしょう。
 女の子の名前はミサちゃんでした。中学生くらいでしょうか。付き添いの先生は、「ミサちゃん、ほら、(商品が)いっぱいあるね……楽しいね」と話しかけています。それに対して、女の子は「アー」とか「ウー」と返事をしていました。その少女を見た河瀬さんはこんなことを思います。
 「この子に、お買い物の楽しさを伝えたい」
 河瀬さんは、いつも高級石鹸を売るときと同じように、ベッドの少女に笑顔で話しかけます。
 「お嬢様、お手をどうぞ」
 河瀬さんの言葉を聞いた付き添いの先生は、「ミサちゃん、おじさんが手を洗ってくれるんだって、やってみる?」と少女に話しかけて、ベッドを河瀬さんの前へ進めます。
 わずかしか動かせない手を、河瀬さんの前に差し出そうとする少女。その手を引っ張り出して、両手で支えてあげる付き添いの先生。
 「じゃーん、では、手を洗うね。この石鹸はお肌がスベスベになるよ!」と河瀬さん。 いつものように商品の説明をしながら、少女の手を石鹸で泡立て、それを洗面器のお湯で洗い、タオルで拭いてあげます。洗い終わった手に触れた、付き添いの先生が声をあげます。
 「どーれ、ミサちゃん、まあ、綺麗になったわね。すべすべだー!どうもありがとうございました!」
 そう言って、ベッドを動かして立ち去ろうとしたときです。
 「アーッ、アーッ」と少女が声をあげたのです。
 「えっ、何?ミサちゃん、なになに?」
 少女の口元に耳を寄せる先生。
 「えっ、欲しい?欲しいの?石鹸?ちょっと待ってね。買えるかなあ?1個591円だよ」
「ウーッ、ウーッ」と応える少女。
 「ミサちゃん、買えるね。ミサちゃんのお小遣いで買えるね。買うの?」
 「ウーッ」
 先生はベッドの下から黄色のかわいい財布を出しました。河瀬さんが一緒にレジまで行くと、少女はお会計のときに、河瀬さんに向かって、ニッコリと微笑みました。そんな少女の姿を見て、付き添いの先生は大泣きしながら、河瀬さんにお礼を言ったそうです。
 「ありがとうございます。ありがとうございます。こんな経験をさせたかったのです。」
 河瀬さんは、このときのことについてこう言っています。
 「商売冥利に尽きました」
 こんな体験こそが、モノを売るという行為の醍醐味なのだと……。
 もしかしたら、それは少女にとって、「生まれて初めてのお店でのお買い物」だったかもしれません。
 お店でモノを買う。
 そんな、私たちが普段、何気なくやっていることが、少女にとってはこのうえなく楽しい体験だったのです
 この少女の話を知って、私は以前本で読んだ、余命わずかなホスピスの患者さんが「何かしたいことはありますか?」と聞かれたときの回答を思い出しました。
 何か、特別な願いごと。たとえば、「もう一度、子どもの頃に食べた〇〇が食べたい」とか。「世界一周がしてみたい」とか。
 そんな願いごとが返ってくると思った私は、その言葉に衝撃を受けたのを覚えています。すでに身体の自由が利かなくなっているその患者さんは、「何かしたいことは?」と聞かれて、こう答えたのです。
 「道を歩きたい」
 コンビニへと向かう、普通の道。その道を、死ぬ前にもう一度歩きたいと……
 お小遣いで買い物をする。
 コンビニへの道を行く。
 そんな、普段の「普通のこと」がいかに尊いことなのか。少女の「初めての買い物」は、そんなことを私に思い出させてくれました。
(西沢泰生「ほろりと泣けてくるいい話33」王様文庫より)
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 健康な私たちは好きな時に出かけて買い物をしたり、食事をしたりと自由に自分の時間を使えます。それが当然と思っています。しかし、周囲を見回すと歩くことさえも不自由な人がたくさんいます。「他人に優しい社会」とは健常者と同じように身体の不自由な人が快適に生きていける社会と定義できます。そのためにはお互いに助け合う心が大切です。そのような社会を作って行きたいものです。

2021年06月27日