#343 タモリの原点

 今日は1月31日です。明日から2月が始まります。2月の上旬に福岡県内の私立高校の入試や地元の私立大学の入試が行われ、その後関西、関東地区の大学入試へと続き2月下旬には国公立大学の個別入試が待っています。実際2月は入試の月となり、中高生の受験生にとり試練のひと月となります。
 さて、先日西日本新聞にタモリさんに関する面白い記事がありましたので、掲載させていただきます。タモリさんが芸能界にデビューする以前の話です。

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『踊りながら乱入した「タモリ」…山下洋輔が遭遇した即興、爆笑の一夜』
福岡市中央区のホテル「タカクラホテル福岡」が31日付けで事業を停止し、自主廃業する。1968年創業の老舗は、ある大物芸能人の誕生のきっかけとなった場所でもあった。ジャズピアニスト、山下洋輔さんにタカクラホテルで過ごした一夜の思い出を寄せてもらった。
 あの場所がなくなると聞いて思い出がよみがえってきた。あそこで、ぼくとタモリが最初に出会ったのだ。そのことについて書いてみよう。
 1972年に福岡で、渡辺貞夫さんのグループと我々(われわれ)のトリオが同じコンサートに出るということがあった。終演後同じホテルに泊まった。我々は部屋飲みをして勝手に騒いでいた。面白好きのテナーサックスの中村誠一が浴衣姿のまま踊り出した。籐のゴミ箱を頭からかぶり、虚無僧の真似(まね)だと言って「そこで虚無僧…」などとセリフを言う。大受けのドラムの森山威男とぼくは「いよう、カッポンカッポン」などとでたらめに盛り上げて大笑いをしていた。
 一方、早稲田大学のジャズ研究会でトランペットを吹いていた経験のあるタモリは、当時の仲間のギターの増尾好秋やベースの鈴木良雄がメンバーとして参加していた貞夫さんのグループに会いに行っていた。そして、その帰り道、エレベーターに向かう途中で、我々の部屋のドンチャン騒ぎが耳に入ったのだ。何だろうと思ったタモリがその部屋のドアノブを触ってみると開いた。昔はオートロックではなかったのだ。それが幸いした。浴衣でデタラメ踊りをする誠一の姿がタモリの目に入った。そのときに「ここはおれのいる場所だと思った」とのちにタモリは言っている。そのまま自分も踊りながら中に入ってきて、大爆笑のうちに我々と出会ったというわけだ。
 ところでこの場面については、別の意見をいただいたのでご紹介する。実は同じ部屋に福岡のジャズ好き、つまりタモリの顔なじみの人たちもいたと言うものだ。だからタモリも安心して入って来られたと。しかし、確かめたところタモリにはその方々の姿は目に入らなかった。部屋は大きくて奥に曲がっており、その方々はそこに集まって飲んでいた。やはりタモリは我々と直接出会っていたのだ。
 我々からすれば、見知らぬ男が突然踊りながら入ってきたわけで、面白くないわけがない。名前を聞く暇もなく騒ぎは続いた。籐のかぶりものを中村誠一から取り上げてその男が自分でかぶって踊り始めた時に、とうとう誠一が咎(とが)めた。得意のデタラメ韓国語でだ。「お前、誰ニゲンナ、ゴスミダ!」というような調子だ。すると男から返ってきたデタラメ韓国語がもっとすごかった。そういうデタラメ外国語のやりとりが、フランス語ドイツ語イタリア語と続き、爆笑続きの我々は息も絶えだえになった。これを言いふらさずにはいられない。というわけで、これをきっかけにタモリは世に知られるようになった。見知らぬ人間が急に入ってきて何かを始めても、それが面白ければ一緒に騒ぐことができる。ジャズのジャムセッションと同じだ。タモリもジャズの人間としてそのことをよく知っていたのだ。今になってこの場所が懐かしくてならない。
(2021/1/27 西日本新聞)
(https://www.nishinippon.co.jp/item/n/685112/)
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 「笑っていいとも」や「ブラタモリ」でおなじみのタモリさん(本名:森田 一義)は日本の芸能界に欠かせない存在となっていますが、上記の記事は芸能界前の若きタモリさんの逸話です。無名の時代から人を引き付ける才能があったのでしょう。踊りながら部屋に入ってきた彼の姿が目に浮かぶようです。
 ちなみにタモリさんは福岡市出身ですが、私が新任教員の頃にタモリの姪御さん(当時高校3年生)を教えた思い出があります。何か不思議な縁を感じます。

2021年01月31日