#428 さだまさし70歳に

 春爛漫の季節となり、いたる所で花々が咲いています。最高気温も20度を越える日が続き、半袖で過ごしてもよい気候です。
 さて、先日歌手のさだまさし氏が70際になりました。フォークソング世代の代表として様々な場面で大活躍されています。それに関連する記事がありましたので、その一部を引用します。
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<4月10日は、70歳の誕生日>
 きょう4月10日は、さだ自身の誕生日で、70歳を迎えた。今年は彼にとって1972年に吉田政美(当時・正美)とフォークデュオ「グレープ」を結成してから(レコードデビューは翌年だが)50年の節目でもある。
その音楽の原点は3歳から始めたバイオリンで、軽音楽に転じてからはギターを弾くようになる。それだけに、本来はサウンド志向で、グレープでデビューした頃は歌詞なんてついていればいい、あくまでメロディを聴かせるんだと思っていたという。そもそも歌うようになったのも、グレープの初ライブを前に、ボーカルを吉田政美と押し付け合ったあげく、じゃんけんをして負けたからにすぎない。
<「北の国から」誕生のきっかけは…>
 そんなさだにとって、歌詞はなくメロディラインをハミングなどで歌うインストゥルメンタルの「北の国から」はまさに面目躍如といえる。言わずと知れた倉本聰脚本の同名ドラマのテーマ曲だ。放送開始の前年の1980年暮れ、札幌でのコンサートの翌日に倉本の家へ招かれ、ドラマの最初の2回分のビデオを見せられると、その場で音楽を依頼された。何度も映像を見て考えた末、ようやくメロディができてギターを弾いたが、言葉が出てこず「ああー」とメロディラインを歌ったところ、倉本からOKが出たという。《言葉がなくても歌は成立するんだなぁ、と勉強になりました。言葉があったら飽きられていたかもしれない、とも思います》とさだはのちに語ってい。
 もちろん、さだの曲には、物語の形をとった歌詞で印象に残るものも多い。初めてこの形式を取り入れたのは、グレープの2ndシングル「精霊流し」(1974年)だった。彼の故郷・長崎の精霊流しでは、新盆の家が船をつくり、親類や友人が集まって故人の霊魂を流す。前年に同い年のいとこが海の事故で亡くなったことや、地元の恩人である実業家・作家の宮﨑康平の強い勧めもあって、この行事を歌うことになった。そのために物語のディテールをまずつくり、初めて身を削るようにして詞を書き上げたという。
<「軟弱」「右翼的」という批判もあった>
「精霊流し」はヒットし、日本レコード大賞の作詩賞も受賞する。しかし、それからというもの詞ばかりがあれこれ論評されるようになり、彼を悩ませることにもなった。ソロになってからの最初のヒット曲「雨やどり」(1977年)では、軒下で雨やどりしていた女性がたまたま出会った男性と恋に落ち、プロポーズされるまでを掌編小説のように歌い、人気を博すも“軟弱”と批判もされた。
 その後もさだの曲をめぐって世間ではたびたび賛否分かれて議論が持ち上がる。男性から結婚する女性への要求を並べ立てて歌にした「関白宣言」(1979年)には、“女性蔑視”だの“熱烈な夫婦愛の表現”だのさまざまな声が上がり、社会現象にまでなった。日露戦争を描いた映画『二百三高地』の主題歌としてつくられた「防人の詩」(1980年)では、映画のイメージもあいまって“軟弱”から一転“好戦的な右翼”とのレッテルを文化人などから貼られる。
 しかし、命の尊さを歌ったつもりだった彼にはそうした反応は心外であった。あまりに音楽とは違うところで批判されることにショックも受けた。「これが伝わらないところでやっていてもしょうがない」と、歌手をやめようとさえ思ったという。そこで向かったのが中国だった。鄧小平による改革開放路線が始まったばかりの1980年、大河・長江を源流へとたどりながら各地の人々や歴史を描くドキュメンタリー映画『長江』を撮影し、翌年公開する。
<映画はヒットしたが、多額の借金が…>
 映画自体はヒットし約5億円の配給収入があった。だが、それ以上に製作費がかさみ、さだは莫大な借金を抱えることになる。その総額は金利も入れると35億円におよんだという。借金を返済し、スタッフに給与を支払うためにも懸命に働くしかなかった。そのために以前から年間100回程度行っていたコンサートが、一時は160回ほどにも増えた。
 のちに当時を振り返り、ノイローゼになる暇もなく、《返すにはどうしたらいいんだろうと思うと、自転車操業で働くしかない。でも、お客さんがたくさんコンサートに来てくれた。お客さんが借金を返してくれたんです》と語っている(※3)。もちろん、客を呼ぶために、さだのほうからもトークで爆笑をとるなどサービスを惜しまなかった。もともと彼のコンサートは歌よりもトークが長いと評判だった。
 返済に追われる一方で、1987年には広島に原爆が落とされた8月6日に同じく被爆地である長崎から平和を祈る野外コンサート「夏・長崎から」をスタートさせている。広島とくらべて長崎はアピールが弱いとの思いから始めたもので、入場料は無料のため毎回少なからぬ赤字を出しながらも、2006年まで20年続いた。
<「素人でいつづけることが大切」>
 郷里ではまた、1995年に「ナガサキピーススフィア・貝の火運動」がさだの呼びかけで発足し、全国各地のボランティアと連携しながら平和の大切さを訴える活動を行っている。2003年には同運動のなかで寄せられた寄付をもとに「ナガサキピースミュージアム」も建設された。こうした一連の活動についてさだは次のように語っている。
《戦争や平和、あるいは環境の問題にしても、素人でいつづけることが大切じゃないかな。歌手である僕の役割は、それぞれの問題の入り口を示すことだと思っています。〈玄関思想〉と勝手に言っているんですが、僕の歌を聴いて、何かを感じてくれればいいんです。(文春オンラインより)
(https://bunshun.jp/articles/-/53419)
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 現在のJ-Popの先駆けとなったフォーク世代で、今でも現役として活躍しているミュージシャンはそれほど多くありません。その代表がさだまさし氏です。彼の作品には家族や人生について数多くの作品があり、他のミュージシャンと違う才能が溢れています。いつまでも活躍してもらいたいミュージシャンの一人です。

2022年04月17日