#655 不世出の喜劇俳優

 暦の上では立秋を迎えましたが、「残暑」というより「酷暑」が続いています。このうだるような暑さの下で全国高校野球大会が甲子園で行われています。猛暑の影響で昨年より1日3試合という形式で行われていますが、なぜか第2試合目は午後1時半から開始となっています。熱中症を避けるための措置ですが、なぜ一番熱い1時半開始なのでしょうか。大会日程の都合なのでしょうか、良く分かりません。もし1時半間開始の試合をすべてナイターに変更すれば2日ほど大会を延長することで、うまく大会運営ができます。大会は夏休み期間中ですので、若干の変更は可能です。日本高野連はそこまで考えていないのでしょう。高校生球児の健康のためにも善処してもらいたいものです。
 さて、8月4日は渥美清さんの命日です。彼ほどの喜劇役者はもう出ないでしょう。それほど類まれな不世出の喜劇俳優だと思います。惜しくも68歳の若さで逝かれましたが、彼の出世作である「男はつらいよ」シリーズは今でも毎年繰り返しテレビで放送されています。今日は彼に関する記事を紹介します。
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『寅さんを生きた渥美清さんは「類いまれな喜劇俳優」 没後30年、「マニア」が語る色あせない魅力』
 映画「男はつらいよ」の主人公「フーテンの寅さん」として愛された俳優の渥美清さん(1928~96年)が68歳で亡くなって4日で30年がたった。
 色あせない魅力に迫る公開講座が同日、千葉県生涯大学校東葛飾学園(流山市)で開催。江戸川大教授で喜劇史研究家の西条昇さん(62)が講演し、「類いまれな喜劇俳優。渥美が、あれほどすごい喜劇俳優だったから寅さんシリーズは生まれた」と断言した。(林容史)

◆「運命の出会いだった」
 「~没後30年~渥美清が“寅さん”になるまで」と題した公開講座は、同校の学生や市民ら約120人が参加した。渥美さんは現在の東京・上野に生まれ、幼少期から浅草の喜劇の舞台が好きだったという。露天商の手伝いもしていて、西条さんは「現実でも寅さんを生きていた」と話した。
 喜劇を楽しむ客が減り、劇団が消えていく中、渥美さんも浅草などのストリップ劇場でコメディアンとして修業を積んだ。肺結核で倒れたのを機に、舞台から映画に軸足を移し、俳優の森繁久弥さんを目標にしていたという。1963年の主演映画「拝啓天皇陛下様」で俳優の地位を確立した。
 1968~69年、渥美さん主演、山田洋次さん脚本でテレビドラマ「男はつらいよ」が放映された。最終回、寅次郎が奄美大島でハブにかまれて死ぬと視聴者から抗議が殺到、山田さんは「罪滅ぼしに映画で生き返らせた」という。
 西条さんは「東大法学部出身ながらとぼけた山田監督と、渡世人でインテリの一面もある渥美、2人の個性がうまく重なった運命の出会いだった」と、しみじみと語った。

◆渥美さんの演技には「繊細さがあった」
東京・飯田橋生まれの西条さんは、6歳の時に両親に連れられ、名画座で初めて「男はつらいよ」を見て以来の寅さんマニア。1988年公開のシリーズ40作目「寅次郎サラダ記念日」では念願の共演も果たした。
 西条さんは、作品の魅力を「マドンナにひと目ぼれし、大人なのに子どもっぽいわがままを通していざこざを起こす。子どもや外国人が見ても楽しめる普遍的な喜劇」と指摘する。
 渥美さんの演技について「小さな目を泳がせて心理状態を表現する繊細さがあった」と解説。露天商が切るたんかなどに触れ、「役柄やストーリーを壊さずアドリブを入れていた。喜劇俳優じゃないとできない技」と感服する。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/506831
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 渥美清さんの訃報を聞いたのは私がまだオーストラリアにいた頃でした。当時ノース・シドニーにあった「国際交流基金シドニー日本文化センター」では毎月日本映画の上映会を行なっており、当時渥美清さんを悼んで「男はつらいよ」49作目を上映してくれました。「男はつらいよ」シリーズは毎回寅さんが失恋するところで終わる映画ですが、この映画に出てくる東京の下町風情や地方ロケの風景は今では見られない日本の風景としていつまでも残り続けることでしょう。
 「男はつらいよ」は日本の古き良き時代を反映している映画だと思います。現在では忘れられた日本人の人情や生き方、家族団らんをそのまま映像として観ることができる映画の一つです。毎回マンネリの映画だと言う評論家もいますが、渥美清さんあっての名作と言えるでしょう。

2026年08月08日