#80 森繁久彌の”遺言”秘話

 今年も残り2日となりました。当塾では高3の受験生のために今日の午前中まで授業を行いました。この生徒は1月1日、2日にセンター試験の直前模試を受験します。今年のセンター試験は1月14日、15日に実施されますので、試験の流れを確認する意味で直前模試は参考になります。センター試験までおよそ半月ありますが、今まで学んできたことを総復習して、体調を整え受験してもらいたいと思います。
 さて冒頭のタイトルですが、今年の3月に銀行に行った際に偶然目にした記事に心を惹かれましたので、ここに引用したいと思います。先日安倍首相がハワイを訪問し、日本軍の真珠湾攻撃で犠牲になった人々に対して哀悼の意を表し、オバマ大統領とともに平和へのメッセージを表明しました。終戦後71年が経ちますが、終戦直後には日本国内でも様々な悲劇があった頃の話です。

--- 春夏秋冬 森繁久彌さんの遺言秘話 ---
  (財界九州2016年3月号より引用)

 森繁久彌さん晩年のことである。作家で脚本家の久世光彦さんは、森繁さんの自宅に週2回通っては聞き書きをし『大遺言書』(新潮社)にまとめた。その中の「混血児(あいのこ)」と「海を渡る花嫁」の章は、ほとんど知られることのなかった”娘桂子”さんのことを遺言のように語ったものである。
 1966(昭和41)年頃、文化放送の帯番組に「今晩は、森繁です」という、毎晩10時から15分間のラジオ番組があり、その中に視聴者の手紙に答えるというコーナーがあった。ある日のこと、東京葛飾区に住む小関桂子という18歳の女の子から、森繁さんにこんな手紙が届いた。
 「拝啓、私は戦後の落とし子と言われる混血児です。私たち混血児は、何かと特別な目で見られて育ってきました。何も悪いことはしていないのに、白い目で見られ、今なお人まえで堂々と歩くことができず、顔を隠して歩く。こんなみじめなことはありません。」
 手紙は几帳面な文字でつづられていて、その子の真剣さが伝わってくる。
 「私の父は黒人です。でも私は父を知りません。生みの母は、私が生まれてすぐ乳飲み子の私を育ての親に預けて行方知れずになりました。その育ての母も、一昨年亡くなりました。私には黒人の血が流れています。黒い肌です。」
 マイクの前で手紙を持つ森繁さんの手は細かく震えた。胸が大きく揺れ、暗闇からいきなり短刀を突きつけられたような気持になった。
 「私は好き好んで混血児に生まれてきたのではありません。戦争が私たち混血児をつくったのです。私にも、他の混血児にも、日本の血が流れています。<アイノコ>でも日本人です。けれど、同情なんか要りません。どうか、せめて私たちを特別な目で見ないで下さい。ただ、同じ日本人として当たり前に思って下さい。それだけです。私は今度の5月で19歳になります。」
 当時よくあった話、といえばそれまでだが、戦後20年、世間がオリンピック景気に沸いている陰に、こんな気持ちで毎日を送らなければならない子供がいたのである。森繁さんは手紙を読み終わり、何も言えなくなってしまった。同情しても、励ましても、この子が過ごしてきた日々と、この子の真実の前では、みんな半端なうそになってしまう。とにかくこの子に会わなければならない。森繁さんはラジオ局の担当者に頼んで、桂子さんと会うことにした。そしてすぐに妻の杏子さんにも会わせ、自分の娘とおなじように愛情で包んだのであった。
 桂子さんは佐世保で生まれ、14歳のとき国籍がないことを知ってショックを受け、東京へ向かった。自殺未遂もした。死ぬこともできず、人を信用することができず苦しんでいるとき森繁さんのラジオの声を聴き、この声には真実があると感じ、正座して森繁さんの声を聴いた。そして、この人には話せるかもしれないと、手紙を書いたのであった。
 放送は反響を呼び、サンフランシスコの日経紙にも紹介され、それを読んだクラークという宣教師の助手をしている青年が桂子さんに会いに来た。やがて愛が生まれて、同じ肌の色のクラークさんと結婚を約束するまでになったのだが、国籍がないためパスポートもビザも出してもらえない。森繁夫妻が懸命に桂子さんを養女にしたと説明しても、戸籍上の手続きが不可能のため門前払いされるだけであった。
 杏子夫人は桂子さんを連れて10日間続けてアメリカ大使館へ通い、「この子の幸せをメチャクチャにするつもりなのですか!」と強く抗議した。ついに大使館も折れて、ビザは発給されたのである。やがて横浜から船に乗ってアメリカへ嫁入りする日が来た。森繁夫妻はこの日のために振袖を用意して見送った。その船の甲板に着物姿をした黒い肌の桂子さんが現れると、船の人も岸壁の見送りの人たちも、声をのんで桂子さんに見入った。花嫁は「お父様~、お母様~」と泣きながら手を振り叫んだ。化粧も髪も乱れてしまったが、その顔はまぎれもない”日本人の顔”であった。
 森繁さんは泣いた。その手を握って涙をこらえる杏子さんの心と体も震えた。そのときのことを桂子さんはこう振り返っている。「1966年の八月三十日でした。汗と涙が入り交じって頬を流れました。国籍のなかった<アイノコ>の私がアメリカ人になったのです。<アイノコ>が<愛の子>になったのです」…と。

--- 引用終わり ---

 かなり長い引用になりましたが、この記事から言えますことは、当時だけでなく現在も混血児(今は「ハーフ」という表現が流行っています。)というだけで差別される人が日本中にたくさん存在するということです。一方では結婚せずに精子バンクを利用して海外から優秀な精子を選び、シングルマザーとして生きていく、と公言する若い女性もいます。
 戦後71年が経ち、日本人の生き方、考え方が大きく変わってきました。経済問題や教育格差など様々な問題がこの国に山積していますが、それらを解決すべく新しい年を迎えたいものです。
 今年のブログは今回が最後になります。お読みくださった方々に感謝します。来年も良い年を迎えられますように、心よりお祈り申し上げますとともに、来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2016年12月30日