#295 桜満開の日に、海達公子のこと
新コロの影響で人々の行動自粛が要請されていますが、桜は今年も咲いています。今が満開です。残念ながらクラスター発生を防止するために、桜下での花見や宴会が自粛されています。桜は来年も咲きますが、自分の命は自分で守るしかありません。
さて、今日は所用で午前中県境のスーパーマーケットまで行ってきました。当塾から自転車で15分のところにあります。そこに行く途中で四ツ山公園に立ち寄りました。この公園は福岡県と熊本県の県境にある4つの小さな山(四つ山)から成り立つ公園です。ここには年に1,2度しか来ませんが、春の桜で有名です。公園の展望台からは有明海やラムサール条約に登録されている荒尾干潟が一望できます。また天気が良ければ遠い天草の島々も見ることができます。また島原湾で唯一の灯台(四ツ山灯台)が公園内にあります。
また、この公園には四つ山神社と四つ山古墳があります。この古墳は6世紀に造られたと言われていますので、今から1500年ほど前に造られたことになります。この場所には古墳群があったと言われており、おそらく当時の豪族がこの一帯を支配していたのでしょう。四つ山神社の境内からははるか遠く島原の街並みや雲仙普賢岳の姿が一望できます。
この四つ山神社に登るには車道を通るコースと南側の階段を上るコースがあります。いつも階段を上って神社に参拝するのですが、今日は階段の途中に案内板があるのに気づきました。「海達公子(かいたつ
きみこ)の文学散歩道」と書いてあります。はて、そんな文学者がいたかな、と思い、わき道に逸れて小道を進んでみました。小道の左右に詩を刻んだ石碑がいくつも建っており、海達公子の顕彰碑となっています。
当塾に戻り、ネットでこの詩人のことを調べてみると、次のような記事が見つかりました。(http://yumeko2.otemo-yan.net/e348116.html)
----------
海達公子(かいたつきみこ)
生誕 1916年8月23日
死没 1933年3月26日
幼少のころより父の影響を受け、雑誌「赤い鳥」などに児童自由詩を発表。北原白秋らの絶賛を浴び、それ以後、詩人として全国に知られるようになる。
1916年(大正5)8月23日長野県飯田市に生まれ、父・松一の仕事の関係で荒尾市で育ちました。貴文(松一のペンネーム)は公子が荒尾北尋常小学校(現・荒尾第二小学校)に入るや、公子に童謡・自由詩を作らせるため、野や海岸に連れ出し、自然観察わ心がけさせ、家庭では「赤い鳥 (注1」などの児童雑誌や読本などの読み聞かせを行います。
小学1年生のときから毎日「日記」を書くことを強いますが、公子は好奇心に富み、それが苦になりませんでした。公子は1年生の後半から作品を次々と「赤い鳥」等に投稿し、2年生にして北原白秋折り紙つきの少女詩人として一躍有名となり全国に知られるようになりました。
1929年(昭和4)ら高瀬高等女学校(現・玉名高校)へ進学、2年のころから若山牧水の妻、喜志子に短歌を習い、短歌の創作をはじめます。1933年(昭和8)3月16日女学校卒業式後に虫垂炎で倒れ、腹膜炎を併発、3月26日
16歳の若さで亡くなりました。
5000編の詩と300首の短歌を遺しました。
【お日さん】
お山の上が
光り出した
お日さんの
上る道
あすこ
あすこ
【すすき】
さら さら すすき
お山のすすき
おててのばして
なにさがす
あおいお空に
なにさがす
【ひし】
とがった
ひしのみ
うらで
もずが
ないた
【てふてふ】
てふてふが
ひらひらとんできた
もちっと向ふへ
とんでいけ
あまちゃの花が
さいている
【夕方】
なたねが
きいない
向ふの方に
人のせた馬が
ぼつぼつ通る
【ばら】
まつかい
まつかい
ばらの花
目にはいつて
るるうちに
目つぶつて
母ちやんに
見せにいこ
----------
北原白秋は有名な詩人ですが、海達公子のことを今日初めて知り、今更ながら自分の知識の無さを恥ずかしく思いました。大牟田・荒尾近郊には幕末から明治、大正にかけて活躍した多くの人達がいます。その人達をいつか紹介したいと思います。